ゴールデンウィークの頃からがドライフライに良いシーズンという体の感覚があって、ついつい出掛けたくなります。横浜に住んでいますが、神奈川県内に素晴らしい渓流があることを知って以来、気晴らしに出かけるのはそこになっています。山歩き1、2時間とセットで、森林浴と磨かれた水に浸かりに出かけるのですが、運が良ければとてもコンディションの良いヤマメに出会えます。5、6年前に初めて釣りをした時には思いがけず良い釣りができたので足繁く通ったのですが、昨年一昨年とすっかり”貧しい渓流”に成り下がってしまって、ついに一回きりの釣行で終わりました。それでもあのブナの森と水があればと今年(2019年)も出かけてみました。

行き掛けに林道で餌釣り師と話す機会があり、今年の様子を尋ねたところ、えらく魚が減ったよ、あの沢もこの沢も、あそこまで奥に入ってそれでも魚がいなくなったよ、と聞かされます。1時間ちょっと。4、5キロ歩いてようやく釣り始めてみればやっぱりスローで、怖いくらい水の中に魚の影が走らず、素敵なハッチの時間帯にワッと虫が湧いているにもかかわらず、何もフライに起こらずでした。もともとそんなに放流しているとも思えないので仕方がないのですが、初めて来た時のようなラッキーは偶然竿抜け期間が長かったせいなのかもしれません。

それにしても日本の渓流釣りはどうしてこうなってしまうのでしょうか。ワンカットの写真に収まれば素晴らしい切り絵なのですが、釣り師として河岸を歩いていくと堰堤や取水口が数キロの間にいくつも現れて、これでは魚は自由に行き来できないし、自然交配による増産はいつも期待薄。それを補うように毎年養殖したものが放たれますが、それらも解禁以降1匹また1匹と釣り師に抜かれているとしか思えないくらい、魚は少ないです。

北米ではスティールヘッドの放流事業によって野生魚が深刻なダメージを受けていて、それは産卵期の微妙な違いや、交雑した後の遺伝子的な強さが足りないせいだとか、いろいろと言われています。ダムのせいだ、スポーニングベッドのせいだ、いや河口や海の漁業のせいだと言われて、懸命に改善に取り組んだ後でも増えない。そしてついには放流魚の遺伝子が決定的なダメージを与えていると言われているのです。カナダでは意地でも放流事業に手を出さないようにしてほしい。

振り返って日本。

ここの8寸以上のヤマメに出会えると、その磨かれた小さな体は山の中の、渓流の、宝石と言いたくなる美しさです。北米や他国ほどの深い自然は残っていないのかもしれませんが、なんとか残したい。もし丹沢の渓流の堰堤を取り壊せるなら、どなたか教えてもらえませんか?何かできることがあるなら協力させていただきたいのです。そう思っています。

ここまで5時間釣りして魚っ気がなかったのですが、景色と竹竿振りを楽しみにも来ているのでリラックスしたものでした。そんな最中やっと1匹、十分見事なのが飛び出してくれて、そのチャンスを拾うことができました。これで満足にも感じ、流れに戻した後は林道に戻り、車に向かいます。途中早朝から奥の沢に詰めていた人たち数人に会い、中型のバックパックを背負ったその脇には振り出し竿が刺さっていました。釣り方は自由なのでなんとも思わないですが、車に戻った際にバックパックから出てきたジップロックに目を見開いた数匹の魚が入っているのを見て久しぶりにがっかりしてしまいました。以前はなんとも思わなかったし、若い頃(20代)は食べに持って帰ったりもしました。けれど結局そうならなくなった。それはまず渓流魚を食べて美味いと思ったことがないからなのですが、それに加えてだんだん歳を重ねると、自然の渓流魚の1匹の希少さが肌にしみてくるからです。昔、西山徹さんが絶対にリリースだ、なぜなら1匹でもキープをOKにすれば100人入って100匹その川の流れからいなくなるからだ、と言っていたことを思い出します。そしてアラスカ・カナダを一人旅して深く解ったのは、食った魚よりリリースした魚の方がはるかに思い出に残っているということなのです。とても不思議ですが、食べた魚のことはそこで命のサイクルが閉じてしまったかのようで、思い返えそうにも空虚な感じになってしまい、知らぬ間に思い出が実にプアなものになってしまっていて、ちょっとうろたえました。一方で逃がした魚、リリースした魚はいまだどこかに繋がりを保っているかのようで、心の中、あるいは脳のどこかで泳ぎ続け、脈々と世代交代が続いて輪廻を繰り返えしているかのような想像ができ、狩猟の満足とは別に加わる手応えを感じられるのです。

 

友人、家族、恋人と来た思い出にキープしたいのでしょうか?ようやく釣った魚は食べるところまで楽しみたいのでしょうか?家に持ち帰っても獲物を得たことに浸りたいものなのでしょうか?食べたければ管理釣り場の魚ではダメでしょうか?釣って痛めつけてリリースして、もう一度釣りたいというのは傲慢でしょうか?

 

 

放そうよ、とはいきませんか?