curiosity

それは好奇心で、とまず言える。他には?スペイに対するレジスタンスか?若干それを含んでいるかもしれないと自分を疑っていたのだけれど、いろいろ思い巡らせて、ヤッパリ、どうやら、それではない。

バンブーロッドでスティールヘッドを釣りたい。なぜ?

不確実への興味でもない。新しいことへの挑戦でもない。バンブーロッドを考えはじめたのは、今やっているフライフィッシングに不都合があるからではなく、その逆で、“なにか”を追いつつ、それから遠ざかっているような微妙な感覚が芽生え始めてからなのだ。

トラウトではずいぶん昔からバンブーロッドを主に使ってきた。けれど、“なにか”を探すようなことにはならなかった。スティールヘッドを追いつつ、そうなってきたのだ。2009年以来、スティールヘッドを通じてフライフィッシングに対して“なにか”を考えるようになり、グラファイトのスペイロッドの効率とは対極と思われるシングルハンドのバンブーロッドに工業製品では含みようがない“なにか”が内在していると思いはじめ、スキーナカントリーの川岸でそこに気持ちが向かいはじめた。

 

バンブーロッドが実際の釣りに登場するとき、その多くは8フィート以下、鱒用、ベテランが手にする手工芸の、味わい深い道具として、だろうか。そんな中、バンブーロッドでサーモンやスティールヘッド、ましてや海に出るとなると、グラスロッドやグラファイトロッドが出現する以前は別として、現在では偏屈の一時的な熱狂のようにマイナーで、奇行の一つとしても見られたりしていると思うのだけれど、どうか。釣りの中でフライフィッシングがとにかく個人的な行為の極地にあって、その中でさらに特異に思われる、スティールヘッドをバンブーロッドで釣ろうとすることは、そんなじゃないだろうか。

釣りに結果を求めるがゆえに様々な警句に踊らされて次ぎから次に取り揃え、周辺が重くなり、自分のフライフィッシングが本来あるべきシンプルなものではなくなってきてしてしまっているのかもしれなかった。そんな今を逆説的に考えて“なにか”を求めてみたい。

Kispiox River Meiser Spey

スペイロッドを担いでスキーナカントリーを彷徨すること12年、全て自分の足でさ迷い続けたせいか、他の釣り人よりもずいぶん遠回りした。ガイドフィッシングの釣人達が素晴しい釣果の報告をするときに、釣れないことが何回かあったし、2週間釣れずにすごしたり、せいぜい一回の釣行で2回、魚に触れて自分の手で水に放せれば良いという年が何回もあった。

 

決して「釣れてます」なんて言える旅ではないながらも、目を血走らせて追いかけたスティールヘッドに、この釣りをはじめた97年からスペイロッドを携えて振り込んでいくうちに、釣りが成熟しつつ、一方で次第にこれでフライフィッシングは完成しているのだろうかと頭によぎるようになってくる。いよいよ10年を超えてスペイフィッシングが一つの形になり、自然の様相が釣りを許せば魚の反応を確率高く呼び込み始めた頃、その疑念は終始頭のなかで浮沈を繰り返し、絶えて消失することがなくなってきた。

2010年、その疑いをバンブーロッドに置き換えて、スペイロッドとともに携えていくことになる。それでもバンブーロッドは現場で一番に取り出されることはなかった。やはり真っ先に手にするのはスペイロッドで、放たれるラインは遠くまで伸び、天候が釣りを許している間中、魚は自分の想定を超えて掛かる時間が時にはあり、今までの数年分に値する数の見事なスティールヘッドが足元に横たわったりする。一体何が起こったのかと思えるくらい、一日にして数年分の“漁獲高”がもたらされてしまう。これで面白くなくなった、などとは言わない。そのスティールヘッドのどれもが十数分、数十分の格闘を強いてくるのだから。

ところがスペイロッドを振り込んでいると、ラインを伸ばしているというよりは、投げている、飛ばしている、その感覚に、フライフィッシングの微妙な味わい深い繋がりに不足を感じ始めた。スペイロッドの太く黒光りする炭素素材の冷たさには自然を切り裂く人工物ならではの何がしかの不純さえ感じはじめる。河を流れる水の広がりや、一時として同じではない流れの複雑さから、どう考えても全ての魚をさらっているわけではないと言うのに、スペイロッドのそれは圧倒的にさえ感じるのだ。自分の思っているようにフライを届け、ラインの仕組みがこれまた人間にはきわめて都合がいいように深さを調整してくれる。

どうにもこの絶対的に有利な感覚に空虚を感じはじめてしまったのです。

Meiser Spey Steelhead

この年はウィンストンの9’を同行させていたので、スペイフィッシングで数日を過ごした後、試しに取り出したところ、瞬く間に流れの中で悪戦苦闘が始まった。今までスペイロッドが助けてくれていたラインの飛行は無残といえるくらい手前で失速し、スペイロッドが見事にコントロールしていた沈むラインも、バンブーロッドとの相性とはかけ離れていて、目に見えて魚が泳いでいない範囲に流れるフライは生気を与える前にあきらめを纏って溺れてしまっている。何もかもに歴然たる相違があり、前日のスペイでの釣りがまるで嘘のように川は静かになって、一日の終わりに弱気だけが残った。

ならばと翌日はスペイロッドを再び握った。魚は再び掛かりだし、しかし、やはり「投げている」感覚に何がしかの疑念が残る。広範囲に、確実に、楽に、フレキシブルに、などなど。効果的で効率的な感触が明らかで、以前追い求めてきたそれらに対して、本当の自分のフライフィッシングは何処にあるのだろうか、と考えは止まない。

 

ある米国のコメントで「ブーはもともとシンキングラインの釣りに向いてはいない」というのがあったことを思い出し、午後は再びウィンストンを握ってフローティングラインのみで釣りをしてみる。果たしてこのときの川がグリースラインメソッドに向いていたかと言うと相当怪しいけれど、自然に対する読みの甘さはさておき、とにかくやってみなければ分からないことがあると言うのは何処の現場であろうと実際である。6時間、再び何も音沙汰がない時が背後に流れていく中でも、ジッと、ウィンストンで届く範囲で釣りを続ける。フライは今まで何度も頼りにしたパープルキングを解かずに結び続けた。

太陽が左の山の陰に隠れようかと言う時間に、ついに掛かった。それはおそらく30インチを少し割る小型のスティールヘッドだったけれど、バンブーロッドは大きくたわみ、馴れないキャスティングですっかり疲労して動きが鈍くなっている腕に容赦なく魚が圧し掛かる。釣りがもたらすポジティブな興奮を得る余裕は少しもないながら、魚はいよいよ取り込まれようかというところまで寄ってきてしまった。けれど、ほとんどビーチに乗せたところでフライが外れて、浅瀬でいったん横たわった魚は水を蹴って流れに戻っていった。

 

 

バンブーロッドでも掛けるところまで釣りができたということ。それ以外は何もこのとき得られなかった。せっかくの新規参入も、「ただそうしたい」とういう「自分のことしか考えていない」目線のせいで、自然と噛合うところがなく、貧相な感触しか残らない。スペイロッドで感じ始めた疑念をバンブーロッドで回答できるほどの感触は得られなかった。けれど、間違いなく、バンブーロッドでのスティールヘッドの釣りはスペイロッドの圧倒的な性能とは違う、不便、不足があり、ひょっとしたらその向こうに何か自分が探している釣りの風景を発見できるのではないかと釣師のカンだけがそう申す。だから、バンブーロッドの探求は継続され、そしてその興味はますます深いところへと進んでいくのだった。