10月。カナダは雨季に入っている。周りの木の高さや密集の具合から、この土地の確実な雨量が想像できる。太陽が雲の間を移動しているのだと言いたくなるくらい、陽が差すのがまれな季節、続く雨にちょっと凍えを感じる翌朝は山の雪が麓にまた1歩迫っている。
連日ポツポツと続く雨に優秀なレインウェアは必要条件となり、耳元の雨滴の連打、目先のフードの縁を伝う雫、その中から見える水面に伸びる黄色いフライラインは北の釣りの一つの“世界”である。この密室にこもる時間が病み付きになってきたらスティールヘッドの釣りを忘れられなくなるだろうナ。
この川の広がりを見れば、自分が探れる範囲はたかだか知れているとわかるはず。全部もらおうなんて思ってはいけない。「大きい川では狭いところを釣れ、小さい川では広いところを釣れ」という格言通りに、まず、見切りを入れる。
一体どこに魚がいるんだと思われる広さの中にも魚が好んで留まる場所があるということが、水に立ち込んだ釣人にはわかるというもの。フライを流れに乗せれば、必ずどこかに水がからんでくるところがあって、吸い込まれるように毛鉤がなじみ、ゆっくりと呼吸をしつつ魚の頭上を通過する要点がある。
氷寒の水に縮こまざるを得ない足の指先で水中をまさぐり、1歩、また1歩と下流に下りながら見えざる相手と対談を続ける。一瞬に“願”を賭けつつ、魚信のない時間の連続をうっちゃって、緊張し続けるのである。
ドライフライで釣りをしてきたあるベテラン釣師いわく、スティールヘッドは何度も何度もフライの後をついてきて、鼻を当てたり、噛むふりをしたり、尾ではたいたり、あるいは鯨のように背中をあらわしてフライの横に出現したりするとのことである。これが水中ともなれば、スティールヘッドはもっと頻繁にフライに接近しているはずである。水中のフライに迫っていても手元に反応が現れないスティールヘッドの無数のしぐさを想像し、知覚したいがために、ラインに触れる指先はいつもハダカでなければならない。
フライが着水してから岸にたどり着き、ゆるい流れにただ浮遊するまで、どこで捕らえられるかは誰にもわからない。魚はただじっと見ているだけで、どこまでついてきているかは誰にもわからない。慌てて次を求め、フライを投げることばかりに気を取られているようでは“人間”が悟られてしまうというもの。グッとこらえて、岸まで流れ着いたフライを一呼吸、そのままにしておく。これだけ冷たい水である。ただフライをくわえ、押しもせず、引きもせず、また、たじろぐこともなく、ただじっとしていることだってあるんじゃないだろうか・・・・・
フライが止まった。何の手ごたえもない。半分疑いつつ、半分信じてラインを上げると・・・・
シーズン後半のこの時期、森の紅葉が終わるかわりにスティールヘッドは色づきはじめる。赤い頬と赤い帯は足元まで捉えた釣り人にしか知ることが出来ないこの時期この川の象徴である。
巻尺を伸ばすと、魚は1メートルであった。どれだけ巨大であっただろう。どれだけ見事であっただろう。この魚が自然による第一級の結晶であり、この自然の一部であることに疑いはないのである。けれど、手にしたスティールヘッドと周囲の自然を見渡すと、自分がその一部になるのには、もはや、どうにもかなわなそうなことのように思えてくる。風景の中で、釣人は本当に小さかった。
計測後、写真もとらず、魚はすぐに流れに戻した。