事実

Kispiox River River's Edge Camp Ground

水は低きに流れ、人は弱きに付く・・・・

アラスカで全種目のサーモンを釣り、揚々とカナダに渡ってすぐさまバンクーバーアイランドを目指してフェリーに乗り込み、汽笛の大音響に驚かされて出航する。この島で雨の中釣ったスティールヘッドは小型ではあったけれど、レインフォレストのみずみずしさを写しているようで、見事に磨かれた体躯に膝まで震えるのである。

カナダ滞在1ヶ月のうちにここまで達成したことでプラスのモメンタムが衰え始めていたのだろうか、テントでの起居を繰り返すばかりになっていた。人は物事の限りを都合よく設定し、都合よく堕落するもの。まさかついにやってきたカナダで、ああ、これでいいのだと思うことになろうとは。

ある日、釣れなくて良いという怠惰をまとって川に出る。道具の扱い、川に立つ姿勢にそれが現れて粗雑なものになる。ため息までついてみたりする。自分が手にしている目の前のチャンスを物憂げな目つきで無視するのである。

断じて正しくなかった。

このとき得た一瞬の旅の出会い、ある釣り人の一言を捕らえて、翌日ドライブ16時間はかかるであろう、夢の川に向かった。キスピオクスである。雑誌に名前が登場し、著名な釣師が口にするあの川である。一体なにをやっていたんだろう、もう帰りたいとでも思っていたのかと、車の中でしきりに自分を責める。もし行かなかったら、自分の時間を空費することがこの旅のラストになってしまうではないか。

 

いくつもの町を通り抜ける。道中、ある部落のキャンプ場では夜半にテントの外で聞こえる獣の足音に震えつつも緊張と高揚を取り戻していく。いよいよワールドクラスの川へ向かう看板を捕らえて、ハンドルから片手をはずし、こぶしを握ってみたりする。

 

人が、高まりすぎた期待とはまったく違った光景に出くわしたらどうなるだろう。キスピオクスはそれだった。あまりに激しい泥濁りの増水なのである。

キャンプ場からは人が消え、同じくやっとの思いで到着する人も様子を見て首を横に振るばかりである。自分には再び16時間のドライブでバンクーバーに引き返す気力はなく、また、もはや急き立てられるものもない。結果、インデアンの居留区を過ぎた山奥のキャンプ場に居を構えて、しばらくここにいてやろうという気に転じた。

川は文字通りの泥にごり、時折木が丸ごと1本流れてくる始末である。雨はやまず、テント内にこだまするポツポツという音を聞かずに寝る日はないのである。さすがにダウンのスリーピングバッグも水分を含んでへこたれてきて、10月中旬の寒さがこたえ始める。朝は必ず焚き火から入る。そしてコーヒー、パンにピーナツバターを塗ってすばやく済ませ、絶望の川を一応調べて回る。

2、3日と過ごすうちにも絶望の川であることは変わらない。4日を過ぎてもまだそのままである。5日目、いよいよ変わらない目の前の水量と濁りを前に、その絶望具合を図ろうと思い立つ。岸の水際に枝を刺して水が引いて行く様を数時間ごとに見てやろうというわけである。

はじめ、その木の棒は倒されてしまっていた。水かさがさらに増えたわけである。しかし6日目の午後以降、数センチ、また数センチと木の棒は沖に向かって立ち並ぶことになっていく。はて?と思って水の流れを凝視すれば、幾分にごりが和らいだように見える。いよいよ竿をつないで川に出てみる。圧倒的な水の量の強い濁りと強い流れがこの川を支配していたのに、ところどころの流れにメリとハリが見え始めている。

 

投げてみた。流してみた。そして釣れてしまった。見事なのが。見たこともないのが。触ってみた。間違いなかった。

もう一回投げてみた。また釣れてしまった。さらにすごいのが上がってきた。ウソのようだった。

 

あれから数年経つ。ついこの前、夢を見たのだ。、川が増水して濁っているから釣りをするのを止める自分、川に行くのを止める自分。竿も継がずにただ、ただずんでいる。そして1度も釣りをしないで川が回復するのを待っているうちに、私に許される時間はタイムオーバーとなった。帰らなければならないと宣告されたとき、急激に襲い掛かってくる無力に悄然となった。

 

増水して濁っている川は事実である。しかしそれだけではない。釣ができる時間が手に入っていること、魚はその濁りの中に必ずいるということ、そして釣れる可能性があるという事実。目の前の何かに惑わされてはいけないヨ。