釣りは一人で

Skein River Steelhead Spey Fishing

本気で釣りに行こうと思ったら一人で行く。あの流れ、あの景色を独占したいからそうする。あの魚に遭いたいからそうする。だれかを連れているより、一人で会った方が自然である。

”Flyfishing is a lonery business”。ロンリーは悲しさを表現する単語だから、果たして釣りを楽しむ釣人にとって適切であるかといえばNOだろうか。けれど、釣りに行くというのは孤独になりに行くのに近いものである。仮に気の置ける友人と連れだっても、やっぱり川に入り、魚に向かうと一人である。孤独は普段の環境から一歩出て手に入るものかもしれないし、我にかえるといつもそうであったりする。

魚が釣れたとなると、ふと周囲を見回して誰か見ていなかったかと調べたくなると言うけれど、一人で来ていればそんな気にはなりようがない。自分の釣り、自分の魚、自分の時間100%である。何とも比較のしようのない手ごたえがあるだけである。

この手ごたえが日常実際は手に入れにくい。求めるものは気軽に手に入ってうかつにはしゃいでおしまいというようなものではだめなのである。そうではない何かを手に入れたくて歩を進めていくと、始まりから到達点までのプロセスにも妙味が出てくる。過程が大事になってくる。ゴールは不確実で、触れることができるかもわからないから恐ろしい。しかしそれに執心して、行こう、となるとやっぱり、一人がいいのである。

一人は旅の基本であると言った人がいる。流れる時間の中に、ふっと一瞬振り返るものが出てきて、それを凝視することができる。自分だけが知っている自分にすぐさまなれるのである。

釣りは開放である。その開放に妨げがあってはいけない。だから、悲しみをちょっと背負いつつ、一人で行くのだ。