この年はいつになく寒く、日中も氷点下が続き、雪がいつもの川を今までにない景色に変えて、広い森と広がる水は別の惑星を演出する。
水からあがった釣糸や毛針が凍りつかずにはいない寒さの中、無意識の希望をどこかに連れて、毎日毎日流れに彷徨いこむ。そして、きっといる、きっと来ると思いつつ、魚信のない時間は容赦なく自分の後ろへ流れてゆく。
もう何日釣れずに過ごしたことだろうか。
スティールヘッドを釣ろうとすれば1日に一回めぐり合うか否かは当然なのである。そしてその価値は誰にもわからない。釣ったことのある人以外は。
自然のなかで無心になる?いや、そうではなく、煩悩の塊に成り下がることのほうが多い。魚信のない時間のなかで頭の中を渦巻くのはそんなことばかりである。
われわれ異物は無垢の惑星の断片に身を置いて、仕事のこと、家族のこと、友人のこと、そしてその大半はうまくいかなかったこと、頭にきたこと、許せなかったこと、そしてどうにもならなかったあの時のことを思い返えす。なぜこんなときにこんなことを、と自分を責めるのだが、目の前のスティールヘッドの世界とはまったく関係のない薄汚れた欲や身勝手な反省、その反復はどうにも止め処がなく、それらは、彷徨いこんだ流れに洗い流してもらえるほど生易しいものではない。一日一回あるかないかのあたりを求めて、とにかく自身を投入するのだけれど、その過程で自分の頭に沸き起こるものが、いくら自分を責めても足りないといわんばかりに連続して頭を支配し、この景色とは無縁の自分の惨めさをスティールヘッドカントリーが直射してくるのである。
これはきっといつもの、都会の時間の中ではあたりまえのように自分を支配することであって、そのことの対極にあたるスティールヘッドの川を目の前にしていよいよ明らさまになってくるようなのだった。
この時間を切り裂くは、峻烈なスティールへッドの一撃、ただあるのみ。
しかし時は切り裂かれず、光は差さず、肩を縮めて川岸をとぼとぼと引き返す日が続き、巡礼は繰り返される。これがスティールヘッドの釣り、その一面である。