続ける

Steelhead Spey Skeena

今年は9月にカナダに入った。

10月は氷寒の冷たさに膝が打ち振るえる水だったけれど、9月はまだ夏の名残を感じさせる穏やかさがある。

10月は向こうの山の頂が白くなっているのが普通だけれど、9月は岩肌が剥く頂上が碧空に突き上げられている。

10月はグレーの寒空一点張りと小雨の連続で、太陽が顔を出すのが稀だけれど、9月は晴れれば太陽の直射が激しく、抜ける青空を呈してくる。ところが、しつこい雨に当たると一回の降雨量が10月のシトシト降りよりたちが悪く、川の荒れ方は釣りをあきらめたくなる様相になる。

10月、森はほとんど葉を振り落とした木々ばかりで、色も少なく、暖も感じさせず、寒さを助長するばかりで、こうなると熊も冬眠準備で山奥に入るようになってくるし、川岸のブッシュも見通しが利くようになってくるのが普通だから猛獣におびえることは少ない。一方、9月は黄金の紅葉が始まったところで、森はいまだみっしりとしていて、見通しが効かない獣道を掻き分けて辿り着く途中の恐怖は真剣なものになってくる。

けれど、やっぱり、9月の紅葉は快晴時の透明な空とも雨の落ちる曇り空とも見事に映えて、この時期のスティールヘッドのフライフィッシングほど明るい芸術を感じるものは少ない。10月の耐え偲んだ後の果実とは別種のもので、9月のスティールヘッドを黄金の紅葉の中で釣ることほど喜びに満ちているものを探すのは難しいのである。9月の釣りは10月と違う興奮で一杯なのだ。

 

休暇で来たとはいえ、暗いうちに寝床から這い出してコーヒーをすすり、サッサと釣り場に向かって竿を継ぐのは釣師の平常で、川に辿り着くと狂熱を帯びた何人かがすでに仕度をはじめている。

いまだ薄暗い早朝、フライラインを引き出すハーディの音があたりに響き渡る。黄色いフライラインがスティールヘッドに向かって伸ばされていく。

スキーナ本流は別名Misty Riverと呼ばれる。朝、靄が川一面に広がるとき、スティールヘッドは水面近くに浮上し、警戒を緩め、釣人は孤独な時間に包まれて静かに興奮する。1年間積上った精神のゴミ溜りの底のほうからウズウズと何かが動き出し、静寂の森と川を覗こうと這い出してくる。

スキーナカントリーに着いて1,2日は、辺りを行き交う動物たち、魚たちの挙動が目に入らず、流れる水を水ともせず、漂う静寂に乱入してゆく無神経さだけれど、3日もするとうずくまっていたかつてのスピリットが次第に全身に広がって、自分の体を分けて流れてゆく水を感知する事ができるようになってくるし、周囲を往来する生命を知覚できるようになってきた。

 

朝が終わり始めると、靄が晴れつつ明かりがあたりに広がってきた。宙を流れるフライラインの軌跡の中に青空が見え始める。しかし山の向こうには薄黒い雲が迫っていて、きっとあの雲は軟弱な人間の釣り糸を翻弄する風を吹き降ろしてくるだろうと想像し、無風の今をせっせと釣り下る。

午前中に1発、水の上に飛び跳ね出た1匹のメスのスティールヘッドがいて、光を散らしてフックから逃げていった。その姿にヒリヒリさせられ、一言何かを呟いて、また釣りを続ける。

思ったとおり、午後、川下からいつもの風の吹き上げが始まり、薄黒い雲は頭上に到達し、風、雲、雨、そして差込む光の協奏がはじまった。

午前中に跳躍を見せたスティールヘッドの手応えは今だに手のひらに残っていて、逃がした魚が惜しくてたまらず、どうにか呼び戻したくて仕方がない。

もう一度来る、いや、もう2度とこない。。。。

掛かったあのときのことが繰り返し思い出されて、期待しすぎてはいけないのだと自分に言い聞かせ、午前の幻を振り切ろうとするのだけれど、続いて今度は長い間釣れなかったあのときが思い出されて、何事もなく流れを泳ぎきった自分のフライを手繰り寄せるたびに不安が重なるのだった。

雨、風、寒気、左の空の黒い雲、右から差し込む太陽、広がる水、紅葉の森。寄って集られて歓喜絶望混在。そして、やっぱり、あの感触、あの魚を、もう一度と。

釣りは続く。