仕舞う

海外に出て行こうというのは国内に失望したのが始まりだったからなのだけれど、新緑の中の渓流やほとばしる夏のフリーストーンの流れを忘れたわけでもないし、そんな自然を見限ったワケではなく、むしろいつか必ずゆっくりとあの場に戻って行きたいと思っている。

東北や甲信越でかつて使った道具たちは今でも大事に仕舞われているし、今でも時には自宅で取り出されて手の中で転がされるのである。ただこれらの出番は近年ほとんどなくなってしまった。

純粋に釣師の理想の場所を求めているうちに年に1度の海外を楽しみにするほかなくなってしまって、以来国内の釣りの時間は削減される一方である。職業フライフィッシャーでもなく、富裕層の一員でもないので、えげつないことを吐露すれば、時間も金も限られているので仕方がないのである。

道具と付き合うのは実はそんなに容易くはないのではないかと思う。彼らは1年のうちのわずかな時間に取り出され、本気を求められる。実際にBCのスティールヘッドやNZのブラウンやAKのサーモン釣りを唯一の楽しみにしていると、道具たちは年に1度出動機会があればいいほうで、数年に一度のモノたちもずいぶんいる。

そんなに機会に恵まれていないというのに、それでもその道具達には一定の投資をしてしまう。身分不相応なことはしないまでも、フライフィッシングは自分のアイデンティティの重要な一要素なので、ここには範囲内で惜しみなく、怠らないのである。

Steelhead Meiser Spey Rod Skeena

エゴが現れた道具の揃え方をする人もいれば、プラクティカル一辺倒の人もいるのだろうけれど、自分の場合はプラクティカルな範囲で十分エゴイスティックなセレクションになっているようだ。いま、自宅の納戸や箪笥の中にこれらは仕舞われてジッとしており、商売上の在庫であればうん十万、うん百万が眠っていることになる。

投資を道具に振り向け続けると、それは増えるきりで、一点一点の付き合いが希薄になるのは人間同士の付き合いとも重なる部分に思ってしまう。だから増えすぎてしまう前に出かけるほうに資金を振り向けて、道具との関係を深くしようとそれらが生きる最上の場所に出かける努力をする。のだけれど、モノに手ごたえを感じて育った世代でもあるので所有欲の一切を放棄するのが難しく、毎年いろいろな理由を編み出しては新しいものを手にするのだった。

ということで今年は竹竿である。

以前からバンブーロッドでのスティールヘッドの釣りには注目していたが、容易ならざるスティールヘッドの釣りにバンブーロッドでグリースラインメソッドのみで立ち向かおうというのは、スペイロッドでも十分挑戦的なのだから一体どうなってしまうのかと想像を掻き立てられた。フライフィッシングを志向する釣師の中でもかなりニッチであるスティールヘッドの釣りに、さらにビッグロッドのバンブーで立ち向かおうというのはごく少数派。たとえばスキーナのメインステムであれば100mや200mのラインが出てゆく世界であり、はるか先に暴れる魚を何度も寄せてくることはできるのだろうか。たとえばキスピオクスでは河の大きさはでは対岸に走られても驚くにはあたらないけれど、Real bigな魚がもし掛かったとしたら、そいつをBeach onできるチカラが竿にあるのだろうか。

初日、新しい道具を握って雀躍して流れに向かった、といいたいところだけれど、実は賭けも背負いつつ、不安も後ろに連れて河原を歩いていたのが本当のところである。

ローウォータ、好天、無風。初日からバンブーのグリースラインアプローチに理想の時空が広がる。

けれど、水面をあまりに手応えなく流れてくるラインを見つめていて、釣りに一切の確信は訪れず、手にする竹竿は所有欲を紛れもなく満たす銘竿ながら、時代遅れ、懐古趣味、単なる似非マニアぶりを自分の第3の目が直視し始め、終いにはここでの道具として実用性に乏しさを感じはじめる。

スキーナカントリーで要求してくるキャストの飛距離を維持するのに苦戦し、徐々にそよぎ始める風に慄き、手首に掛かる負担に使いこなす自信を失う。水面近くをスイスイ泳いでくるフライを変えたいと思っても、この竿では沈むラインを操作するのが難しいのは分かっている。

「あえて」竹竿でというチャレンジだから1日振ったのだけれど、陽が沈んでやっと魚信を得て小型のスティールヘッドが竿を絞ったものの、納得感がない。技量と道具と精神のバランスが悪いようで充足感がない。冒険を求めて新人というべきか往年の名選手というべきか、バンブーロッドを借り出し、初日から先発させたところ、調和を生み出すことなく、まったくかみ合わない手ごたえのなさを感じてしまった。

そこで、翌日からは別の道具に移った。過去12年経験を積み重ねたアプローチに戻し、ここ数年使い慣れたレギュラー選手に交代である。すると、事態は一変してしまった。

昨日とほぼ変わらないといっていい水や天候なのに、次々に魚が掛かるのである。せっかく連れてきたからという同情ではなく、まさに主力として取り出した道具たちは生き生きと躍動し、手になじみ、深く水に入ろうとも風が唸りはじめても、事態の変化に応用が利き、魚の挙動を捕らえ、自然に呼応する。

本日急に活性が高まったワケでもないだろう。事実、その後の2日も同じような天候が続き、スペイ用の道具たちははしゃぐに十分な時間をすごしたのだった。

しかし長くは続かないものである。空と森が広がるこの土地で、旅の中盤から悪天候がかなたから押し寄せてくるのが目に見えて分かり、それは小規模ではなく、天候が変われば数日は続きそうである。

良い時間は旅の前半で終わり、残りの4日間はまったくの音沙汰なし。最後の2日間は竿を出すのも気が引けるような増水と濁りに変わってしまった。

連れてきた道具たちは徐々に静かになり、雨に打たれて音無しくなってしまった。今年の躍動はわずか4日で終わってしまったのだった。

ラインを巻き取り、継いだロッドを抜く。道具たちを仕舞う手になにやら物悲しさが宿り始める。旅の最終日は大体こんなものである。もう1年先まで待たなければいけないのだろうか。来月にでも再び飛んで来たいと心が叫んでいるのに、それはどうしようもないことなのか。年間52週のうちの51週の生活に戻るしかないのか。無理と承知でも自問が湧き起こるのである。

今年も1年が終わった。すでに来年が恋しい。カナダから戻るや、せっせとフライを巻き、ラインをセットアップしなおし、ロッドに綿布を滑らせつつ、リールにオイルを点すことになる。今年もわずか8日間の釣りのために駆出された道具たちは、この後は357日の間、押入れや箪笥の中に仕舞われる。本気を出すのは年数日きりである。