釣りからの帰途、バンクーバーで綴っています。
97年以来スティールヘッドを追っているのですが、今年(2018年)あらためてこの魚の魅力を確認させられました。
これはあくまで自分にとっての話なのですが。
経験していない分野がたくさんあるのを承知で言いますが。
スキーナカントリーのスティールヘッドは無数の趣味趣向がある釣りの世界で最高、筆頭です。
東北でヤマメを釣っても、コロラドでレインボーを釣っても、クリスマス島でボーンやトレバリを釣っても、北海道でイトウを釣っても、大西洋のサラーを釣っても、北米のコーストサイドでストライパーを釣っても、ベリーズでパーミットを釣っても、そのどれもが素晴らしい釣りであることは想像できます。きっとこれらが身近であれば、他に手を出す必要がないくらい魅力的なのだと想像します。
しかし色々と想像を巡らせて、頭の中の対比を繰り返し、自分のライフスタイルのバランスで考えていくと、毎年遠くまで出かけてまで選ぶとなると、カナダのスティールヘッドになってしまいます。なぜなら比較対象のどれをも凌ぐ可能性がある魅力の塊なのです。
色、形、顔、体。自然がスティールヘッドに与えたデザインに比肩しうる魚はどこにいるのでしょうか。太平洋大西洋のいずれの鮭にも勝るし、イトウやタイメン、岩魚族は別の容姿です。(開高さんは全ての魚は美しいと言っています。同意しつつ、ここではちょっとバカにならせてください。) 唯一ヤマメが候補ですが、今度は大きさ力強さで比較しようがありません。竿にドシンと乗る有無を言わさぬ強さ。同じサイズなら淡水では唯一キングが思い出されますが、跳躍の種類やファイトのトリッキーさでスティールヘッドが勝るし、何よりフライフィッシングのアプローチの多彩さ、らしいフライフィッシングができるスティールヘッドはフライ釣り師にとってキングは比較の対象になりません。一方、海にはいくらでも強靭俊敏な魚がいるのでしょうけれど、顔付きがまるで違う。どんなに銀色に輝こうともスティールヘッドのハンサムにはかなわない、スティールヘッドの容貌には太刀打ちできないのです。
そんな魚だから毎年逢いたくなってしまいます。
腰を入れて竿の胴体を曲げてもビクともしない。水中からぐんぐんと響く生命の鼓動を感じつつ、釣り師が引き寄せようとしたところでドッシリ動かない。この手応えこそ望んでいたもの。ワクワクします。そして必ず一発二発かましてくるのはわかっています。針を外されたくはない、けれど「これぞスティールヘッド」というファイトがあるから病みつきです。走りにかかるか、水面に飛び出してくるか。首を振り、カラダをひねり、釣り師を恐怖に陥れる。手のひら大の尾ヒレで水を蹴って、いつまでもよるのを拒み続け、水底に貼りつこうとする。取り込むには10分ほどかかるし、もっとの時だって多い。そしてようやく魚を目の当たりにして、なんて魚なんだ、こんなのが泳いでいたのかと、何度も驚かずにはいられないのです。これが病みつきになる。不確実の麻薬と美しいものの虜。ファイトが凄いから、ではなく素晴らしい魚が素晴らしいファイトをするから熱狂するのです。この見事な魚が偶然自分のフライに誘われた奇跡。この魚をフライフィッシングで釣れる奇跡。実物が足元に横たわったのを見た人にしかわからない。写真はいっぱい撮りたいけれど、とてつもない野生の美を目の前に、実に人間らしい行為をそこに挟むのが申し訳ないと感じ、あるいは大きな命を傷めているのが怖くなって、なるべく早く流れに戻すようになりました。
2012年、スペイロッドで結構掛かるようになってきた時、見渡せば現場で出会う釣り師のほぼ全員が長い竿を握り、太く重いラインで水面を切り裂いて遠くに投げ込み、化学素材たっぷりのルアーのようなものを泳がせているのに気がついて、この素敵な魚にヤラズぶったくりのような釣り方でいいのだろうかと考えてしまいました。そして今まで魚が着いていた場所を考えて、一気に竹竿のシングルハンドに切り替えました。狙える範囲は限られますが、それが良いのです。この仕掛けで釣りができない流れは放っておいて、最高デザインの魚が自分の竿の届かない場所を遡上して抜けて行くことを想像し、スティールヘッドの未来がまだあると思いたいです。