実は旅に出かける前になると憂鬱になります。出かけて空港に向かう高速バスの中でも、憂鬱だったりします。仕事から解放される罪悪感、ワイフを置いての旅行だから感じる罪悪感。不安。一時日本を離れる間につい先日まであったものが変わってしまう、あるいはなくなってしまうかも知れないという不安。そしてこれから出掛けるにあたって持ち物が大丈夫かという不安。うまくやれるだろうか、問題なくできるだろうかという不安。いろいろと入り混じって、そして気が重くなるのです。意気揚々と出かけていく旅行が実は少なくて、これは一人旅だからなんでしょうか。

独りになるために行くのに独りになるのが不安です。この不安の克服も年1回は行う一人合宿の目的なのですが。一人で出掛けるせいというわけではないのでしょうけれど、旅はおおよそ完璧ということがありません。荷物を少なくしようとあれこれ悩みますが、現場ではあれもやっぱりもってくればよかったと思うし、事前に勝手に描く旅の絵にはいつも魚が飛ばす水しぶきが輝いているのですが、自然のご機嫌はまず間違いなくその通りではありません。多くのことと同様、旅もまた次回以降で賢くなるほか無いのが通常なのですが、それの応用が利くようになるにはもう少し齢を重ねなければいけないようです。

 

釣りは低調で、昨年とは違って川の様子も空の具合も、なにか重い雰囲気が時空を流れていて、せっかく描いてきた日中のハッチの中のドライフライフィッシングはほぼ全く機会がないままに過ぎてゆく。2月の中盤以降はやっぱりバケーション・シーズンで、釣り人も増えるものなのでしょう、今年は人が多いです。昨年は歩き続ければ人影を感じない爽やで清冽な流れにたどり着けたのに、そこにはすでに誰かの影があり、流れる水はどこもすでに人の手によって掻き回されたように感じ取れます。水中に見える魚が少なく、餌取りに浅い流れに出てきている魚も昨年以上に警戒を怠らない。釣果はそれなりなのに、アプローチが思い描いた通りにならないので、パッとしない低調な気分が釣りの間中続きます。

 

夜はモーテルに帰ってPCのスイッチを入れる。別にアピールでもなく、毎晩仕事に取り掛かります。今回は釣りの合間に仕事というよりは仕事をしなければいけないところ無理やり釣りをしようという旅です。一時的に職場をニュージーランドに移したようなものなのです。ヘンかもしれないのですがこれでいいのです。こういうときもあります。

リーマンブラザーズが破綻し、100年に一度の大恐慌と呼ばれ始める前に自宅を購入し、そう呼ばれ始めてから今のマンションを売りに出さなければいけなくなり、社内ではコストカットを連呼されつつリストラ話が世界中に蔓延しているというのに、私は職場を1週間NZに移してみた。先に述べたように、これはいわば一人合宿。一人であることに意義があり、誰ともはしゃぎたくない、口もききたくない。

よく周りの人に「一人ですか?」「友達といくんじゃないんですか?」「向こうに友達いるんですか?」「奥さんは?」「寂しくないですか?」と聞かれます。本当に良く聞かれるのです。

「いや、一人です、独りになりたいんです」

誰とも競争したくない、誰とも競合したくない、自分の時間100%であってほしい。自分と向き合いたい、いやな自分と向き合わなければならない、逃げないようにしたい。あるとき経済誌を読んでいた際に、マイクロソフト創始者のゲイツ氏も一人合宿を毎年1回すると書いてあり、そのときに社の将来を見つめ直し、新しい方針を打ち出すそうです。「あなたはビルゲイツではない」と言う誰かの声が聞こえてきそうだけれど、ゲイツ氏もまた人間であると思えば、脳の配線や存在、成し遂げてきていることでは途方もないくらい比較しようがないのですが、一人の人間として私は一人合宿をしたくなる気持ちがわからないわけではないのです。

新しい着想を得ようという試みも、この時間には少なからず期待されていたりします。回想され反省されることを一通り出さないことには出てこない何かがあったり。塵となって心に積もったものの下に醸造されているものを取り出すにはどうしてもこの時間が必要なのです。休暇があるおかげで、一人旅を繰り返し、普段より1歩さがって自分に欠けているところを見ることができるのです。そしてそれは、自分にとって、川に出て野生の魚に対してフライロッドを振り込むということになります。前夜に読んだメールの内容で気分が悪くなっても、あれもこれも仕上げねばと頭の隅でミッションがグルグル回っていても、年に数回はどっぷりと川で竿を振らねばなりません。それは自分にとってフライフィッシングがライフワークであり、アイデンティティだからなのです。これが無くなったら最後、心に積もった汚濁は腐敗の進行とともに精神を侵蝕する。堆積した腐葉を時に掻き分けて、取り除いて、その下で吹いた芽に陽を当てることがなくなると自身が失われるのではないかと強烈な不安に襲われる。本当にいやな、だめな人間になってしまう姿が想像できる。

 

 

フライフィッシングはいわば薬なのです。麻薬のようにたとえられることも多いですが、私の場合どちらかというと病気になる前に必要な薬なのです。そういうことにしておいてほしい。実際に効き目はあります。